傷ついた。と言われた。
その言葉に、ワタシ自身も傷ついた。
ワタシは大事な友達を傷つけたらしい。
言われるまで気付けない自分に呆れた。
君は結果を重視しすぎると言われた。
それの何が悪いのか、ワタシには理解できなかった。
結果は大切。結果が全て。
そういう意味では、仕事とはとても簡単でラクなものだ。
職場の人間関係もそれに準ずる。
結果が大半を占める代わりに、人の感情を考慮する必要性が減る。
ワタシにとっては非常にありがたい。
職場で快適な人間関係を作るのは案外簡単である。
ある人に、君は人形のように表情が変わらないと言われた。
ある人には、君はいつも泣きそうな顔をしていると言われた。
さらに別の人には、君はいつも元気そうで羨ましいよと言われた。
人とは多面的なものであると思う。
しかしワタシは、あらゆる側面を柔軟に曝け出すのが苦手だ。
相手が最も望むであろう一面を全面に押し出すという偏ったコミュニケーションを続けてきた。
その結果がこれである。
人との距離感を測るのが苦手だ。
好きと嫌い(興味ないを含む)が極端なのだ。
好きになると同性異性構わずストーカーのようになってしまう。
だから敢えて、距離を取る。
大切な人の時間を奪いたくはないし、ウザイと思われればワタシだって傷つく。
だから大事な人はそっとしておきたい。
時々笑った顔が見られればそれでいい。
会社員の仕事は大抵の場合が相対評価だ。
特に私のしているような仕事は、その傾向が顕著である。
こんなラクなことはない。
他人の仕事を観察して、それらより少しだけ質を上げればいい。
それだけで評価がぐっと高まるのだから、逆に言えばそれ以上はやる必要が無い。
だけどプライベートの人間関係は絶対評価。
しかも評価基準は個人によって異なるし、明確に公言されることはない。
摩擦を起こさないように気を配っているつもりでも、何年かに1回はミスが出る。
距離の観測を見誤ることがある。
相手の行動が予測の範囲を超えることがある。
ワタシのせいで傷ついたと、彼女がストレートにぶつけてきたので。
ワタシはごめんと素直に謝った。
コミュニケーション能力は明らかにワタシの方が劣っている自覚があるので、
こういうトラブルはワタシに非がある確率が高い。
例えワタシに理解できなかったとしても、だ。
彼女のそういう素直なところは本当に素晴らしいと思う。
摩擦を避けるワタシには絶対にできない発言をする。
ハッキリと非難してくれたので、ワタシは謝る機会を得ることができた。
そうなった理由を話すこともできた。
もしも彼女が不満を抱え込んだら、最悪そのまま縁が切れたかもしれない。
少しでも迷惑だと思ったら長く友達はできない。だから自己完結せずにその都度言え。
普通の人はそういうの、一々言葉にされなくても感覚で汲みとるんだろうな。
次に会ったら直接ちゃんと謝らなければいけない。
心から本当に謝罪することって早々ないから、ちょっと緊張する。
仕事だといくらでも出来るんだけどなー。